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自分に向き合い、日々思考する

母の一生は幸せだったか?②

昨年の5月83歳で亡くなった母は一体自分の一生をどう見ているだろう。もしここに母がいて母の一生について二人で話すことができたなら。私たちはどんな会話ができるのだろうか?

母の結婚は人がうらやむような結婚だっただろう。母は美人だった。性格もよく非の打ちどころがなかったはずだ。母に好意を寄せていた人も多かっただろう。

父もそうだ。40代の父は会社でベストダンディに選ばれていた。ましてや東大卒なのだ。最高の学歴なのだから、だれもがうらやむ結婚だったに違いない。

未だに実家には白黒の二人の結婚写真飾られている。その写真の二人は間違いなく美男美女である。

母の幸せの絶頂期だったのではないか。

それから間もなく2歳おきに3人の子どもを授かった。

兄そして筆者の私そして妹。

兄が小学生になったころ家族は東京の西荻窪、母の実家のすぐ近くに越してきた。

そのあたりは母の親族が住んでおり、越した先の古い家は母の叔父にあたる人の所有の土地だった。たまたま住人が越したので父が建物を購入し引っ越したのだ。その後建物は立て直したが未だに親族に地代を払い続けている。

その家に今私が住んでいるのだ。

おそらく子育てで一番忙しい時期だっただろう。

母の実家の近くに越したからと言って母は母の実家から子育てを手伝ってもらえたわけではなかった。

母の実家はテーラーを営んでおり、商売をやっていたので逆に母が忙しい子育ての居間に実家の手伝いに行っていた。

母の実家には母の弟で小児麻痺の私の叔父がいた。この叔父は寝たきりだったため、母が叔父の食事を食べさせに行っていた。昭和のこの時代洗濯機も冷蔵庫もあったとはいえ、今より家事に時間がかかったに違いなく、母の一番忙しい時期であっただろう。

母が実家近くに家を買えたのもこの叔父がいて、母の助けが必要だったからなのだ。

私が小学校に入るころ、家を建て直すことになった。それまでの家はトタン屋根の平屋の家で家族五人が住むには限界だったのだろう。

父は上場企業の会社員だった。ほぼ都心の本社にいたた地方転勤などはなかった。

新築の家はローンの返済のために二階に二部屋分貸し部屋にした。自宅二階に他人が住んでいることが私にとって初めての経験で、時々窓から部屋をそっと覗いていたことを記憶している。

このころ父は昭和の猛烈サラリーマンとして朝早くから夜遅くまで働いていた。

帰宅するのはだいたい深夜だった。飲み会も多かったんだと思う。本社の人事部長になりますます忙しい日々を送っていた。

母は3人の子育てと実家の手伝いと相変わらずあわただしい日々だっただろう。

兄弟のまん中の私は比較的手がかからなかったために、よくいとこの家に泊まりに行っていた。従妹は小金井市に住んでいた。国電に乗って4つ目の駅だった。何度もお泊りをした記憶があるが、まだ小さい妹がいて小学校低学年のやんちゃな兄の世話でいっぱいだったのだろう。

母に多少の時間的な余裕ができたのは妹が小学校に入学してからではないかと思う。

そのころ母は趣味で木目込み人形の習い事を始めた。母はさすがテーラーの娘で手先の器用な人だった。時々近所の友人に私たちを預けて浅草橋にある教室に通っていた。

母にとってストレス解消だっただろう。

 

次回は母のそのころの気持ちを想像してみたい。