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自分に向き合い、日々思考する

母の一生は幸せだったか?④

母は昭和という時代の価値観に影響される一生だったと思う

父親が亭主関白で、母親が専業主婦で子供は三人。核家族。良い大学、よい就職を目指し学歴社会。会社員の父親は夜遅くまで仕事をし、飲み会はしょっちゅうだ。父親の機嫌が悪ければ家の中で怒鳴り散らし、母親はそれを静かに耐え忍ぶ。休みの日は家族で出かける。たまに外食。少しずつ世の中テクノロジーの進歩や景気の上がり始め、ますます父親は忙しくなる。会社では出世をすれば給料は上がり、家族の生活は豊かになってくる。そしてますます父親はストレスをため家では怒鳴りまくる。

私の家もそんな典型的な家族だった。父は一部上場の会社で出世コースを歩んでいた。

しかし3人も子供がいたため貯金ができたわけではなかったが、そのころのサラリーマン家庭の標準の生活をしていた。

私が高校生のころには父は会社で人事部長になっていた。

そのころ景気が下がり始め、従業員のリストラの中心人物だった。会社内の大量リストラを行い、父は多くの従業員に恨まれる立場となった。

自宅には脅迫電話もかかった。警察に相談して、パトロールをしてもらっていた。

父の会社生活の一番苦しく、そして華やかな時だったのだろう。

 

その横で母は何を思っていたのか。父のイライラは一番ひどくなっていたのではないか。従業員をくびにするなど、楽しい仕事ではなかっただろう。家の中でそのストレスを発散していたに違いない。

それでも、父の給料は上がり、三人が私立の高校や大学に行くことができていたのだ。

妹の大学の授業料を払い終わったとき母がお金がすっかりなくなった。といったのを覚えている。今思えば大学で国立に行った兄以外高校から三人はすべて私立に進んだ。

貯金がなくなって当たり前である。

今では三人を一人の給料で私立の学校に生かすことは難しいだろう。

それだけ父の給料は上がっていたのだ。

給料をしっかり運んでくる父に対して、母はどんなに怒鳴りつけられても我慢していたのだ。それが当然の時代だった。

父の大きな怒鳴り声を母はどう耐えたのだろう。

その後父はさらに出世し会社の役員になった。家には会社の車が迎えに来ていた。

無くなってしまった貯金をそこからそれまでの何倍もの勢いで増やしていった。

バブルのころ、会社を退職しては退職金を受け取り、また子会社に社長として就職する。というシステムになっていた。父はそれで一気に老後の資金をためたのだろう。

何度か社長になってた。

母はそのころやっと時間的にも金銭的にも余裕ができて、友人との交流もできていたと思う。一番楽しいときだっただろうか。

父の短気は相変わらずだったが。

父が会社勤めをしている間は昼間父のいない時間に穏やかに過ごせたのである。

どんなに怒鳴り散らしていたとしても、ウィークデイは朝早くから夜遅くまで父はいなかったのだから、母は穏やかに過ごしていたのだ。

自分の両親や兄弟がなくなったり、介護があったりしたが、合間に友人と習い事をし近所の親せきとおしゃべりをし、娘二人自宅に住んでいたのだから、そのころは幸せに感じていたのではないか。

しかしそれもつかの間だった。

母は友人と旅行の予定の日の朝、妹が死んだ。

 

母の一生は幸せだったか?⑤につづく