自己肯定感
子供のころから自己肯定感が低かった。自分を好きになれなかったのは自己肯定感が原因だったことは最近になって理解した。
三人兄弟の真ん中だった。兄がいて妹がいて。2歳違いの私は真ん中。
兄とけんかし、妹と張り合い。兄も妹も私に張り合う気持ちなどなかっただろう。
真ん中の私が一人で、兄と妹に張り合っていた。
なぜか。
母は手のかかる兄や、まだ小さい妹に手がかかっていたのだろう。
私は手のかからないことして存在せざる負えなかった。
私は十分手のかからない子としての役割を果たしていた。
母は助かっただろう。
わがままは言ってはいけないと思っていた。
いつの間にか私は兄と妹よりもよいこでいることが使命になっていた。
それは勝手に自分でそう思っていたのだ。
母に好かれるために。
大抵の子どもの望みは母に好かれることなのだ。
そしていつの間にか一人で勝手に兄と妹に張り合っていた。
これも一方的だった。
優しい兄を兄とも思わずけんかをふっかけていた。優しく穏やかな妹は私の攻撃を静かに耐えていた。
そして年齢を重ね、学校生活が始まり、家族以外の人間関係が生活の中心になってくるといつも自分に自信がなくいつもイライラしていた。
大きな顔をしていられたのは家の中だけだった。
外での生活は自己肯定感が低いために、自分らしく振舞うことができずストレスをためていたのだ。
友人との会話も途中で話すことがなくなってしまうのだ。
話題は考えてから話す。それが終わると話すことがなくなる。
シーンとしてしまい、私のことを嫌いだろうなと考えてしまう。
シーンとなるのが嫌なので、なるべく人と二人で話す状況を避けていた。
自分らしくありのままの自分をさらけ出せなかったのだ。
人に嫌われないように振舞うことが当たり前になっていた。
私が大抵好きになる友人は自己肯定感が高く、自分の意見ははっきりというタイプの子であった。
あこがれていたのだ。
そういう人間になりたいとずっとあこがれていた。
もちろんそのころ私はなぜ自分は自分の言いたいことを話すことができないのか?
自己肯定感の低さから来ているとは思ってもいなかった。
自分の生まれながらの性格によるものだと思っていた。
そんな性格の自分が嫌いだった。
自分はうそつきだと認識していた。
その場が丸く収まること、自分が良い人に見えること、そのためにばれない小さな嘘ばかり言っていた。
嘘つきな自分が大嫌いだった。
それなのにうそを辞められなかった。
そんな自分を嫌っていた。
やりたくないことでも「いいよ」
友人を長く待っていたのに「来たばかり」
遊びたくないのに「遊ぼう」
そんな嘘ばかり言っていた。
とにかく社交的でもなければ、気持ちが優しくもないのに
社交的で思いやりのある人物を演じるために自分の気持ちに噓をついていた。
私は自分に正直な人に見える友人に憧れていた。
なぜ私は自己肯定感が低かったのか。
昭和という時代の常識せい。
遺伝子的 父はガッツで頑張る人だった。子供たちにも当然ガッツで頑張ることを要求していた。父の性格に一番近かったのが私だった。
母は優しい人だった。私のありのままを認めてくれていたが、真ん中に生まれていたことで私には母とのかかわりが少なかった。
こんな理由で私は自己肯定感が低かった。
そしてそれは私の57年の人生のほとんどに影響を与えた。
付き合う相手も自分に自信がないので、そこそこの人で良いとした。
大好きになった人とは関われなかった。
嫌われるのが怖かったのだ。
本当の自分はつまらない人間だからそれを知られて嫌われたくなかった。
だから私にがっかりしない程度の人と付き合った。
そして一方的に私を好きだった人物と結婚した。
すぐに私の気持ちには関心を持たない人物だと分かったからだ。
安心していられたのだ。
私がどういう人間かということを考える思考回路がそもそもない人物だったからだ。
結婚相手さえ自己肯定感が低さが影響を与えたのだ。
私の人生のほとんどに影響を与えてきたのだ。
50年の年月を自己肯定感の低さが足を引っ張るものとなった。
それは残念なことだが本当のことである。
自分を成長させることにエネルギーを使いながら、その時その時のありのままの自分を愛して暮らしてこれたなら、私の今はもっと違うものになっていたに違いない。
ただしもう過ぎ去った日々を悔やんでも元には戻れない。私は今この時にならないと気がつけない人生だったのだ。
だからこそこれからは自己肯定感を高めてありのままを好きになり、まだまだダメなところも今の自分なのだと認めてあげる人生をこれから送ろう
毎朝目覚めたときに今日一日を過ごせることをワクワクするような毎日を送ろう
残りの人生を自分で幸せに過ごそう