thinking thinking thinking

自分に向き合い、日々思考する

目標はSNSで収入を得る

私の目標の一つであるSNSで収入を得ること。この目標の達成のため私が日々やるべきことをきちんとこなして行きたいと思う。

1 まず一つは必ずこのブログを書くこと。一日一回最低5分でも良いのでブログを書く。それによって書くことの抵抗感をなくし、いつでも滑らかに文章を書けるようにする。

2 次に毎日読書をする。紙の本オーディブルキンドルどれでもよいが必ず毎日読書し月に20冊以上を読み終える。

3 新しい挑戦をする

4 バドミントンをわくわくやる

5 ハーモニカもわくわくやる

6 ユーチューブも毎日投稿する

7 インスタも毎日投稿する。写真俳句

8 ミーニングノート、感謝日記、モーニングノートいずれか一つは毎日書く

9 おいしいものを毎日自炊する

10 早寝早起き睡眠時間をしっかり取る

11 オンラインサロンの読書アウトプット型のイベントに時々参加する

12 10日後十ヶ月後十年後のことを寝る前に考える

13 スマホは家の中でわできるだけ使用しない。近くに置かない。目標の達成の最大の阻害要因であることを意識する

14 毎日じゃんたまを集中してやる

15 たくさんの経験型インプットを毎日意識的に経験する

16 旅行をする

以上 

まず10か月続ける

その後2年続ける

3年後目標を達成できている

 

40年前からの友人たち

40年前高校生だった。バドミントン部に所属し部活中心の生活だった。部活自体は緩い体育会系部活だったが、やはり部活のメンバーたちとはクラスの友人とは違う濃い関係を築いていたのだろう

 

卒業後それぞれが結婚するまではバドミントン部で集まることは定期的にやっていた。

旅行も行ったし、飲み会もあったし、20代後半まではよく会っていた。

結婚して子供が生まれ30代からは会うこともなくなった。

それぞれの生活に追われていたからだ。

専業主婦であった私たちは、同じような生活をしていたと思う。

子供3人であったことも同じであったし、子供の年齢もほとんど同じであった。

 

昨日久しぶりに再会した

7、8年前にはあっていたがコロナの期間を挟んでずいぶん間が空いた。

自分たちではお互い変わらないねと言い合った。

見た目にはかわっただろう。17才の私たちと57才の私たちと

見た目ではない

話始めると17才のころと何ら変わらない気持ちで話しているのに気付くのだ。

安心感か

自分にも相手にも求めることのない人間関係か

ただ会ってしゃべって共に行動してることが楽かった存在

今も変わらないということなのか

 

貴重な40年前の友人の幸せを感じる自分の幸せ

最後までともに同じ時代を生きたい友人

めったに会わなくても生きていて幸せにいてほしい友人

 

そんな存在がいる幸せを感じた一日だった。

離婚までのこと

25年の結婚生活の後離婚して、私はやっと成長したのだと思う

 

自分にブレーキをかけずにかかわれる友人たちがいる一方で、心を許す関係にはならないと思う友人もいる。

その人に対して限られた内容で会話をしている。

大人として表面的な会話に限られるといえる。

そんなとき非言語情報が私の脳内で活動しているのだ。きっと。

それはもう皮膚感覚のようなもので自分が把握しているのだ。

 

だからと言ってそれがいいとか悪いとかではないだろう。すべての人と心許せる関係になれるわけではない。そうではない人との関係も楽しみたいと思っているのだ。

相手からの何か面白い情報をつかんでみたいと思っているのだが

 

元夫は初めから心許してかかわるタイプの人間ではないことはわかっていた。

自分をさらけ出したところで、その意味も理解しなかったはずだからだ

だからこそ安心していられたのだ。

わたしこそ精神的に子供だったのだ。

自分をさらけ出す人間関係を築けない臆病者であった。

 

元夫は勝手に私を自分の理想の人間にしていた。本当の私を感じ取れないからだ。

言語情報と現実の視覚情報からのみ人間を理解する人だった。

非言語情報を理解しない人間だった。

 

私は

妹の死に神経が占領されていた。悲しみ,くやしさ、後悔。そしてすべての人への憎しみさえもあった。

そして

私は心をされけ出せる人に傷つけられることの方がつらいと感じる人間だった。

 

そんな中元夫は私にとって限られた内容で会話するしか選択肢のない人間だった。

元夫も精神的に子供だった。相手の気持ちや相手の非言語情報を読み取れるようなものを持ち合わせないタイプの人であった。

性格だと思っていた。

25年間ずっと。

気が付いたのは遅かった。

いわゆる発達障害であるスペクトラム症候群であったのだ。

診断されたわけではないし、今でも本人は自覚していない

 

大学のカウンセラーの先生に娘が面談した時に初めて耳にしたのだ。

スペクトラム症候群

父親の様子を話した娘が聞いてきた単語。

その症状を説明する本も貸してくれた。

そして私はもっと子供であった。

自分をさらけ出す人間関係を築けない臆病者であった。

元夫は勝手に私を自分の理想の人間にしていた。本当の私を感じ取れないからだ。

言語情報と自分の脳が理解した情報だけで人間関係を作る元夫と25年結婚生活を送れたのは

まさに臆病者の私には都合がよかったのだ。

私の心の領域に入り込んでくることができない人であったことが、私にとっての安心感につながっていた。

 

そして元夫にとっても、自分の理想の世界で生きられて都合がよかったのだ。

 

結婚生活が破綻したのは子供の成長が大きい。

大人二人だけの生活であったのなら、お互いが都合よく生きていればよかったのだ。

離婚などしていないだろう。

外からは仲の良い夫婦に見えるだけだっただろう。

 

子供の成長は大人の都合など考慮しない。

大人の都合こそ子供の成長に悪影響だ。

 

子供の気持ちを理解しない元夫は、言語情報と自分の視覚情報と自分の脳の理想郷の情報のみで子育てをした。

それは親の言うことを聞く年齢までは、外から見ると理想的に見えた

従順な3人の子どもは父親の理想どおりに行動した。

 

特に長男は親に気に入られるために必死だったのだ。

しかし最初の子どもに対する父親の脳の理想郷はゆるぎないものだった。

我慢強い長男は必死に生きていた。

 

そして母親の私は元夫と関りをできるだけ避けたいと望んでいた。

話しても通じないのはわかっていたからだ。

間違ってはいないのだから、私は私、元夫は元夫

別々でいようとしていた。

むしろ自然にそうなっていた。

私は分かり合えないとはあきらめていたからだ。

子供に対する元夫の理想郷は子供たちが成長するにしたがって大きなものになっていった。

それがまちがえだったのだ。

理想郷は子供の成長に従って小さくしていかないとならなかったのに、元夫の脳内の理想郷は大きく確固たるものとなり一方的な強制力まで持たせた。

それは長男から長女へそして次男へとシフトしていった。

元夫の次男への介入が始まったころには、長男は爆発寸前だった。

長女は耐えられずに祖父母の家に出ていった。

次男だけ父親の介入をまともに取り合わなかった。

兄弟3人目のなせる業であろう。

見ている私や長男長女のほうがハラハラドキドキしていた。

父親に指導され、決められたことを守ろうとはしなかったからだ。

父親の部屋に一人呼び出され指導されても言われたことを守らなかった。

次男にとってはできないものはできなかったのだ。

 

そんな次男の存在がそのころ私の心のオアシスとなった。

次男だけは何とか父親から守ろう。

そう決めていた。

 

そしてついに長男が爆発した。

父親と取っ組み合いとなった。

壁に穴が開くほどのだった。

優しい長男は結局父親に暴力を振るわなかった。

向かってくる父親を押さえつけていただけだった。

 

悔しかったのだ。

大人しい長男がついに反抗した。

はじめてのことだった。

我慢の限界だった。

そして警察に駆け込んで父親の暴力を訴えたのだ。

父親が罰せられないのは許せなかったのだ。

悪いのは父親であることを証明したかったのだ。

 

わたしはそうだえらい。いいぞ。逮捕されろ

長男がやりつくしたと思えるまでやるべきだと思った。

長男のためにそうするべきだと思った。

 

元夫はどうせ長男の長い苦しみを理解しないのだから。

 

元夫はショックだっただろう。

人の気持ちが理解できないのだから。

自分がどう思われているか初めて気が付いただろう。

しかし自分の理想のせいで他の家族が長年苦しんでいたことなど思いもよらないだろう。

 

元夫の両親に助けを求めた

それ以外助けてもらえる人はいないからだ。

母親は気が付いていたはずだが、元夫の父親はむしろ怒りを覚えただろう。

自分の息子を発達障害だといわれたのだから。

自慢の息子だったはずだ。

発達障害の意味も分からなかったと思う。

母親は間違いなく普通でないことは知っていたはずだ。

 

だが元夫の両親は私を突き放した。

 

そのとき私も決めた。

元夫はこの人たちに返そう。

3人の子どもを優先する

コーヒー豆

コーヒーが好きで家にいれば4杯も5杯も飲む。胃に悪いのも分かっているのでたいてい牛乳を多めに入れる。とうとうデロンギの全自動コーヒーメーカーも購入した。

家にいる時間を長くなりコーヒーの量も増えていく。

 

先日コーヒー豆の安いのはないかとアマゾンで検索していると、2キロで2,550円のコーヒー豆を見つけた。レビューも安いわりに良いというコメントが多かった。

早速ポチすると、慌てていたのか豆ではなく、挽いたコーヒー粉が2キロ届いた。

これはまずいと慌てて販売元に連絡を入れたが無料で交換することはできないと言う返信だった。送料を払って送り返すのなら交換するということだったが送料の値段を考えると安いコーヒー豆を探す意味がなくなってしまう。

デロンギの全自動コーヒーメーカーにコーヒー豆を投入して毎日手間なく挽きたてのコーヒーを飲もうと妄想したが失敗に終わった。

結局コーヒーの粉を2キロ分飲み終わってから改めてコーヒー豆を注文するのが一番お得であると思い直し毎日30gのコーヒーの粉をきちんと測り、お湯は90度、お湯の量は500CCきちんと測って、自らコーヒーを淹れることにした。

その時使っていた電気湯沸かし器が水漏れをし始めて使えないわけではないが故障していた。自分でコーヒーを淹れるのならできたら注ぎ口の細いタイプがコーヒーを入れるのに適していると思い探してみた。

自分としてもなんとか粉のコーヒーをおいしく楽に2キロ分飲み尽くしたいと思っていた。アマゾンの中でコーヒーを淹れるための先の細い電気湯沸かし器を見つけた。しかし1万円もする電気湯沸かし器の中でわ結構高い方であった。

 

もしかしたら溜まっているセゾンカードのポイントでこういったものならカタログの中にあるのではないかとひらめき今度はセゾンカードのカタログを支配検索した。

見つけました

 

注ぎ口は細いタイプで90度に沸騰する設定もでき希望どうりのティファールの電気湯沸かし器であった。

その湯沸かし器が届いてから私は粉のコーヒーを毎朝500mlずつきちんと測ってコーヒーを入れている

最初のお湯60CCはコーヒーの粉を湿らすために、次から100CCずつゆっくり回しながらふっくらと粉を泡立てるようにお湯を注いでいます

全自動コーヒーメーカーに頼らず自分でコーヒーを淹れることが今では朝のルーティーンとなり楽しんでいる。

 

コーヒーの粉を誤って買ってしまった時は自分の失敗にがっかりしたがその失敗のおかげでコーヒーを自分で入れる楽しみも味わうことができました

自分の力で失敗を成功に変えたかなあと考えると多少自己肯定感が上がったような気がします

今後も失敗を恐れずいろんなことにチャレンジして行きたいと少しワクワクしました

セルフネグレクト

自分の外見に無関心なやばい高齢者のことをセルフネグレクトというらしい。

今日読み終わった本で初めて知った言葉である。

セルフネグレクト

そしてまさに自分がセルフネグレクトだと確信しました。

私はよく友人におじさんになりたいといっていました。要するにセルフネグレクトなのおじさんになればシャツ一枚で近所のコンビニくらい構わずに行けるだろう。おじさんであれば外出する際も面倒な化粧をしないでそのまま靴を履けば出かけられるだろう。おじさんになれば何か服着てさえいれば許されるであろう

そんな気ままな毎日を送れるおじさんが憧れとなっていました

おばさんなんて面倒くさい。さすがにシャツ一枚ではコンビニには行けない。ブラジャーぐらいして行かないとならないのだ。おばさんはいくつになっても人間関係が面倒くさい。おじさんなら一人で充分だ。高齢者の一人なんか当たり前なのだ。それなのにおばさんは人間関係だどこへ行ってもいくつになってもめんどうくさい。

だから私はおじさんになりたいと言っていた。

 

そんな私が今日読んだ本でおじさんになりたいイコールセルフネグレクトだと知ったのです。

高齢者になったら、品格のある衰退お目指しなさい

外見にこだわる。外見を意識する。外見に手をかける。

それによって自分に自信が生まれ、発言も活発となり心も体も生き生きとしてくる。

外見に意欲が現れてくるのだろう

自分が自分に関心を持っている状態

高齢者に向けて私はセルフネグレクトの真逆の道を目指すべきだと今日改めて確信しました

自分の外見に無関心にならず生きる気力を持って死を迎える

もうおじさんに憧れることは卒業します

私たちはカサンドラ症候群

夫が自閉スペクトラム症だ。と思った時から、私は勉強を始めた。

本を読み、東京都の発達障害の相談施設にも行った。

自分は自閉症スペクトラム症の家族がなりやすいカサンドラ症候群ではないかと疑い、カサンドラ症候群自助グループにも参加した。

今日2年ぶりにその時知り合いになった友人と下北沢で待ち合わせた。

出会いは6年前だ。昭和40年生まれの同い年だった。

同じように自閉症スペクトラム症の夫に苦しんでいた。

全てのことをわかりあった。

誰にも理解されない苦しみを私たちは分かち合った。

結局私は夫と離婚した。

彼女は夫にあなたは自閉症スペクトラム症であることを話し、それによって自分が苦しんできたことを話し、今後はそれを踏まえて、新しい関係でもう一度やり直していこうと決心した。

私たちは違う選択をしたが、今はカサンドラ症候群を卒業し、それぞれ自分らしく幸せに生きようとしている。

 

あれはもう6年以上も前のことであるか、夫が自閉症スペクトラム症ではないかという疑いを娘が受けたカウンセラーから聞くこととなった。

自閉症スペクトラム症という言葉をわたしはそのとき初めて聞いた。

その衝撃は今でも思い出せる。

嬉しかったのである。そうなんだ。昔は小躍りしたいような気持ちになった。

そうなんだ私を傷つけようとしていたわけではない。

私をかなしませようとしていたわけではない。

本人は何も感じ取ってはいなかったのである。

わたしが傷つき傷つき悲しんできたことに対してなぜ理解できないのか苦しんでいた私でしたが。

夫は脳の癖で、人の気持ちを感じ取ることができない人だったのである。

長い間の結婚生活の様々なことが思い起こされ合点がいった。

そうだったんだ。悪い人ではなかったのだ。私の気持ちは限界だったのだ。

もうこんな人間とかかわりをもっていることの限界がきていたところだったのだ。

 

その後私は義理の両親に助けを求めた。私はきっと救われる。きっと幸せになれると思った。

義理の両親に話せば何とかやっていけると思った。

しかし甘かった。

私はいつもそうだった。未透視が甘いのだ。

実の息子を発達障害という嫁をだれが助けようとするか。

不愉快だっただろう。

弁護士になった自慢の息子を発達障害だと言いに来たのだから。

しかし頭から否定できなかっただろう。

母親ならもしかしたらと思ったに違いない。

父親は自閉症スペクトラム症という発達障害自体理解しなかっただろう。

いやしたもしれないが息子を発達障害とは思いたくもなかっただろう。

母親は痛いところを指摘されたと思ったに違いない。しかし息子が発達障害だろうとなかろうと弁護士で一人前の大人なのだから、そんなことはもう関係ないと思いたいと思っただろう。

嫁の私は

発達障害のある人間と生きていることはとてもつらいことを理解してくれるのはこの人たちしかいないだから共有してもらいたかったのだ。

一緒に考えてもらいたいと思ったのだ。

共に考えてもらえれば私は乗り越えられると思ってすがる様な気持だったのだ。

 

しかし実の親は違う

嫁はとにかく我慢してくれればよいのだ。

嫁の幸せなど二の次。発達障害などと診断する必要などない。ありのままの息子のことを我慢して付き合ってくれ

それが本音なのだ。

当然だろう。自慢の実の息子のことしか考えられないのは。

逆の立場だったら私も同じだったかもしれない。

そんな人間にはなりたくないが。

 

義理の両親は私のことは助けてくれない。と理解したとき私は離婚の気持ちが固まったのだと思う。

生涯学習が鍵

自分が幸せに生きるために文章を書きたいのだ。

そのためには日々の勉強、すなわち学習が欠かせない。

それは生涯学習といえる

本を読まなければならない。

人間を観察しなければならない。

良好な人間関係を作るべきだし

健康でいなければならないし

あたらしいことにチャレンジしていたいたいし

収入も安定していなければならない

好きな運動をしていたいし

 

毎日の様々な学習といえるものがすべて書くことにつながり、幸せにつながる

日々の様々なチャレンジや勉強や人付き合いが生涯学習なのだ。

私は学習欲が高い方だ。

ストレングスファインダーの検査結果で分かっている。

生涯学習は私の得意な分野であるはずだ

きっと生涯学習で私は文章が書けるようになり、幸せに生きることができる

生涯学習で学ぶことすべてを上達させる

それが今の中長期目標